昭和50年11月24日 朝の御理解



 御理解 第51節
 「天地の間に住む人間は神の氏子、身上に痛み病気あっては家業出来難し、身上安全を願い家業出精五穀成就、牛馬に至るまで、氏子身の上の事何なりとも実意を以て願え。」
 この御理解を頂いとりますと、成る程親神様だなと思います。天地の間に棲む人間は神の氏子と仰る、その氏子が様々な難儀に直面しておると親として、こんなに悲しい事はないだらうと。そこで願えと何でもよいそれこそ牛馬の事に至るまで、痛い痒いがあっては家業が出来難し、身の上安全を願い、所謂家業出精五穀成就、所謂人事百搬何なりとも願えと仰られております。
 本当に親神様と思いますね。それは成る程神仏と云うのは、矢張り悲しい時の神頼み一心に願って、ほんに奇跡的なおかげを頂きまして来たと云う、そう云う対象になった神仏は確かにありました。ですから矢張りおかげを頂きましたけれども。天地の親神様も矢張りそうである。けれども矢張り違う所はです、何なりとも実意を以て願えと仰られておる所が違うのです。実意を以て願はなければいけない、同時に此処に最初の所にあります様に。天地の間に棲む人間は、神の氏子と仰られてあるのですから。
 この自覚ですだから親神様だと云う自覚の上に実意を持って願え。云うなら筋道立てて願えと。只今まで沢山の神仏を拝んで来ておった。唯苦しい時の神頼み的に様々な修行をしたり、そして自分の願いのたけを、願って成就するという神仏のご利益だと云うそれと根本的になんです。先ず神の氏子としての自覚が出来ると然もその親が。云うておられる事は、実意を持って願えと仰る。
 実意を持って願うと云う事は、どう言う事であらうか。昨夜お月並み祭の前に、九大線を御利用しておいでになる方が、田主丸の駅で降りた所が、駅前に石焼き芋ですか売っておったから、親先生が唐芋のほっこり焼きが好きだと聞いとったから沢山買うて来た。沢山と云うか紙袋いっぱい買うて来た、まだばってん今すぐ食べる訳にはいかんから。月並み祭が済んでから食べようと楽しんで、とにかく冷えない様にと言うて、上にこう上げて家内が暖めておった。
 それで誰もこい彼もこいいというて頂きだしたのはよかったけれど、どっこいその芋が焼けじけになっとった中が赤くなっとるのがあるでしょう。折角のポヤポヤするお芋さんの味と言うものはなかった。私はその時にです本当に田主丸の駅でそれこそ売れないお芋やさんがうらぶれた姿を一番先に感じた。その食べるそれが美味しい、美味しくないと言うのではなくて、焼き芋屋さんの事を祈らずにおられないものを感じた。
 焼いて貯めとるけど誰も買いに来ん訳です。だから仕方がない焼き貯めてあるのを売った訳です。もうこげなものを売ってからこげなもんばと言うてから、例えば思うてもよい訳です。何と実意がない事だろうかと言うてもよいです。けれども向こうに実意がなかってもこちらが実意で受けたら、そう言う事になるのです。相手が清まって来るのです、誰も知りません焼き芋屋さんが今日は私の事を祈って下さる頂いておる事は分りませんでしょうけれども祈らずに居られません。
 先日から熊谷さんの例で申しております様に。親先生の事を祈る。もう親先生のお健康を祈っとれば自分も健康だと、本当に成る程そうだとよく申します。自分の事は祈らんでも教会の事を一生懸命願えば、自分の家もおかげを頂いとる、天下国家の事を願はして貰ひよれば、信心になったらその天下国家の中に自分と言うものはあるんだ。例えばここのここの会楽位なら、会楽位な事に一生懸命お願いしとれば。
 会楽の中に大坪家もあるんだから、一生懸命に会楽の事を願うそういう願い方を段々続けて行く間にです。確かにおかげを頂くけれどもそこに不純な、も村全体の事を願いよれば自分の家もその中に入っとるぢやから。村全体の事を願えばええという風に感じて来たら、そこに不純なものが感じられてきた。そこで私が熊谷さんに申しております様にです。矢張り自分の事も切実なのですから矢張り願はなければいけません。そして親先生の事を願はせて今の言葉を以てすると、自分の方の所謂ここの所のね。
 それこそ身の上の事から、五穀豊饒の事から家業出精身の上どう言う事でも自分の事を祈り願う。はせて頂いて後に、会楽なら会楽全体の事を願い。言うならば日本国中の事を願い。いうなら世界中の世界真の平和を願はせて頂いておかげを頂かせて貰うてから。この願いというものに不純なものがかからない、人の事を願うのじゃなくてもうここには所謂無条件、私が昨日焼き芋屋さんのその事を祈った事はいわば無条件なのであります。昨日幹三郎がお話を致しとりました事の中から。
 私は大変有り難いものを頂いた。夕べ聞いて頂いた通りである。あの中から教祖の教えの深遠さというものは日に日に生きるが信心なりと仰せられる。その日に日に生きると云う事のです、尊さを分からせて貰う、あれは何とかいう人でしたね。この人は非常に哲学の勉強をした難かしい本を読めば読む程。人生とは何ぞやと言う事を究明して行く間にです、もうこれは死んだ方がましと言う事で。
 華厳の滝に飛び込んだ学者がありましたね。矢張り本当に生きると言う事は、死ぬると言う事は、人生とはというまあ難かしい問題を学問的に究明してゆくと、矢張り分らなくなって来るでしょうね。そこに宗教の救いがいる訳です。天地の心と教祖は天地日月の心とね。天地の心を言わば心として今日の御理解を、ですけれども、天地の間に棲む人間は、皆神の氏子と、然もこの様な偉大な美しい、そうい中にお生かしのおかげを頂いて居る、この世で不変というならば。
 この天地自然の働き、同時に親が子を思うの一念。この思いだけは永劫変わるものではなかろうと、外のものはどんなに変わってもこれは変わらん。と言う事が分かった時にです。そういう尊いその祈りの中にある僕が。こういう素晴らしい天地の中に生かされている私が、その天地の心を心としての生き方、日に日に生きるが信心とは、そこに所謂神様の思いが分り、思いが分ってどれもが分らせて貰う時にです。
 そんなら折角生きるんだ。その生き方を天地の法則に従った。親の思いに添う生き方を。身につけようそういう生き方をしよう。と言う事その事が日に日に生きるが信心だと、言う事だと私は話を聞きながら感じた。なんという力強い生き方がそこにある、そこに天地の心が分からなければならない。それには天地の法則を分からなければならない、その法則に従った行き方を、させて頂くという生き方が、取りもなおさず私は実意な生き方だと思いますね。
 そういう生き方の中にも、矢張り痛いもあれば痒くもある。様々な難儀はあるけれどもそういう難儀を、切実に親だから生き神様だから、子供が願うのは当然の事、けれども(?)ではない何事なりと実意を持ってと仰せられる、実意とは我が儘のない横着のない、心だとも思います、私は天地の心を心としたら、我が儘も出来ない、横着も出来ないと思うです。親の思いも分かったら。所謂こういう生き方を果たして親が喜ぶかと言う事を先ず考えるだろうと思います。
 そして親の思いに添う生き方、言うならば孝心孝行の心そういう親に言うならば。喜んで貰いたくて堪らん、親孝行がしたくて堪らん。そういう心で願えばおかげになる、何時も私が申します様になぜかと言うと。その心が実意だからなのです。神様の願いに応える天地の心を心としての生き方をです。そこに天地の御恩徳が分り、天地の間に棲む人間は。神の氏子であるというならば氏子としての、自覚が出来た所から。その親神様のお心に添い奉らうとする生き方。そういう生き方を身につけて願うのである。
 そういう人が天下国家の事を願い、そういう人が誰彼のこと縁にまかせて、祈り願うていくという生き方をさせて頂いたら必ず。神様がお聞き届けて下さるだろうと信じます。今日教団の事を祈り願はせて頂いとりましたら。握り寿司のねあのウニのウニをつけた握り寿司がありますね。まあ寿司の中でも一番高いのぢゃないでしょうか。まあ私はあれが大好物なんですけれども、シャリですねご飯を浅草海苔で巻いて御座います。
 その上に生ウニが掛けてあります。載せてある所謂ウニの握りです、ウニと言えば珍味です、唯珍らしくてというだけでなくて。また本当に素晴らしい味のものです。段々この頃金光様の御信心をさせて頂くのですけれども。おかげを頂いておるのですけれども。もうそれが何んとも言いようのない様な。味わいのおかげが段々少なく成って来たというのです。言うならばウニというのは皆さんも御承知の様に丁度栗の様にしておる。しかもじがじがする。じがじがの栗の中に少しばかり入っておるのが、それを取り溜めて市場に出される訳ですがだから高価な筈です。
 本当いうたらそこにジガジガする様な問題なら問題、難儀その中にこそ本当の珍味は味わいはあるものだというのですけれども。その難儀の味わいと云う物を味わおうとはしないで、唯おかげを頂きたいおかげを頂きたいというて願うておかげを頂いてもです。それは成る程おかげになってもです。それこそ山海の珍味と思われる様な味わいの物を、感ずる事が出来ません。そういう意味で合楽では皆さんが。ほんとに神様のお働きちゃ恐れ入ってしまいますという、その恐れ入ったおかげを皆さんが受けておる。
 そこでならここでは、勿論難はみかげと云う事ですけれども、それを難を難とせず神様の御心であり。神愛だと説かせて貰う。決して困った事じゃないのだ。より本当の事を分らして下さろうとする、より本当の力を与えて下さろうとする、より尊いお徳を下さろうとする。御神愛以外にはないのだと言う所が分って、その中身を頂いた時に、ウニにも似た味わいがあるのです。それには矢張りあの浅草海苔です。「色は黒うても浅草海苔は。米のまんまの肌をまく」と言う様にです。
 所謂浅草海苔というのはです苦労と言う事、それを苦労とせず修行とするという修行が一巻きたらん。そこからです、唯難儀は難儀いうならばウニを外から眺めておる様なもので。じがじがしておる様なものではなかろうか、腹立たしかったりじがじがしたり、本当に悲観したり悩んだりしとるのは。その中にこそ有り難い味わいがあるのですけれども。そういう信心を身につけていくものが。金光様の御信者の中にも、大変少なくなって来た。唯お願いをしておかげを頂くと言うだけ。
 だけれども実意を持って願うという信心がなく成って来た。そこにです本当の言うならば味わいに触れる事の出来ない金光教になってしまっておる様な感じがするのです。教団の事を例えば願はして貰うならば、本当の神様のいうならば神様の底力とでも言おうか。神様の本当のおかげとでもいはうか。その神様の底の底の力に触れる、それこそ妙なるまでの神様のお働きを私共が実意な信心を以て頂き止めた時にです唯有難うて勿体のうて。という様なお陰になって来るのです。
 私は今日の51節を頂いて成る程天地の親神様が金光大神にお伝えになられた、この御教えがです、成程親神様だな親様だなと思います。そこで親神様の願いとしてはです。人間氏子の様々な難儀があっては折角の天地の間に棲まはせて頂き乍ら、不平不足のいうなら、この世は苦の世苦の世界で、終らなければならないと言う事では、親として見るに忍びない。そこで全てのおかげの鍵を握って御座る天地の親神様がです。それを頂いてくれよと。信心しておかげを受けてくれよと言う事は実意をもって願って。
 おかげを頂いてくれよと云う事なんです。そこでですなら、私共が愈々本当に日に日に生きるが信心なりと。いう親神様の思いが分り、折角お生かしのおかげを頂いとるのであるから、無為な生き方では、こげな馬鹿らしい事はない。愈々神様の心を分らして貰うて、神様のお心に添い奉る行き方をしよう。親に喜んで頂く生き方をさせて貰うと。そこに私は生き甲斐を感ずる信心こそ、本当の意味においての金光教の信者だと思います。親神様のお心に添い奉る生き方を。それにはです。
 先ずは私共が神の氏子である自覚をつくらねばなりません。天地の間に棲む人間は皆神の氏子と、この氏子の自覚が出来なければ、親子の例えば、如何に親子であっても親の思いの切なる心というか。願いというか子供にかけたその願いというものが、分らして頂いてこそ初めて、親孝行が出来るのです。親が背中が痒いと云いよるのに腹どん掻いてやりよる様ではいかんでしょうが。だから先ずは親がどこが痒いというておるか、親がどこを願っておるかと云う事が分かった時に、それに応えるのが親孝行です。
 天地の親神様のお心が分かる。そのお心を教祖は様々の角度から説き明かしてあります。天地の道理言うならば天地の中に幸せになる一つの法則と言うものがある。不幸せにならなければならない様な生き方をしたんではねでけん。幸せになる生き方所謂それを真の道とも教えて下さる。その真の道を分らせて頂いて、真のおかげを頂かして貰う。今日は先ずは神の氏子である自覚、そして何事なりともどう云う事でも、実意を以て願うと云う事の内容を聞いて頂きました。
   どうぞ。